坂本龍馬 ゆかりの地2

坂本龍馬 ゆかりの地 その3

坂本龍馬は薩摩藩と長州藩に働きかけて薩長同盟を結ばせますが、その際両藩を仲良くさせる布石として武器商人グラバーから鉄砲などの武器を薩摩藩名義で調達して長州藩に供給しました。

そのようなことなど気づくはずもない長州藩は薩摩藩にたいそう感謝をし、蓄年のわだかまりの一部が氷解したということです。

坂本龍馬 ゆかりの地 その4

1866年、薩長同盟成立後に長州藩の三吉慎蔵と京都伏見の寺田屋に潜伏していた坂本龍馬を伏見奉行所筆頭与力・世良主膳を頭にした捕り方が襲撃します。

お龍の気転と高杉晋作からもらった6連発ピストル、そして千葉道場から允可を受けたその腕前によって坂本龍馬は難を切り抜けます。

坂本龍馬 ゆかりの地 その5

坂本龍馬の墓は彼が生まれた高知にはなく、明治天皇の詔によって建立された京都霊山護国神社にあります。

彼の墓は同志中岡慎太郎の墓のとなりに寄り添うように並んでいます。

この神社には彼のほかにも日本の近代化に寄与した幕末の志士たちが多数眠っています。

坂本龍馬 ゆかりの地 その6

寺田屋事件で負傷した坂本竜馬は、西郷隆盛らの計らいで内縁のお龍とともに静養を兼ね日本で初めてといわれる新婚旅行に旅立ちます。

このときに立ち寄ったのがこの鹿児島の霧島で天の逆鉾などを見て回って楽しんだそうです。

ただし、88日間にも及ぶこの旅行は敵情視察のためのものだったと唱える方もおられるようです。

坂本龍馬 ゆかりの地 その7

坂本竜馬が内縁のお龍とともに寺田屋事件で負傷した傷を治すために湯治をしたのがこの塩浸温泉です。

敷地内には彼ら

坂本龍馬 ゆかりの地

坂本龍馬 ゆかりの地 その1

桂浜に立つ坂本龍馬像と同様に、有志による募金活動によって造られたものです。

龍馬生誕150年にあたる1885年に坂本龍馬記念館建設委員会なるものが形成されましたが、建物ができあがったのはその6年後の1991年。

6年間の長い募金活動で何と10億円の資金が集められたといいます。

この記念館の入場券には坂本龍馬の自筆によるサインのコピーが印刷されています。

威風堂々としていてかっこいいですよ。

1階に坂本龍馬の一生を振りかえる常設展示、二階には坂本龍馬にまつわる書や掛け軸などが展示されています。

坂本龍馬 ゆかりの地 その2

坂本龍馬ゆかりの地めぐりをする方々が必ずといっていいほど立ち寄るのが桂浜の坂本竜馬像です。

台座を含めた高さは約14メートル、龍馬像だけの高さは約5メートルで、1928年に当時のお金15,000円で建立されたということです。

ややハスに構えた龍馬は懐手をしながらはるか太平洋の沖合を眺めています。

「海はまっこと、ひろいきに」龍馬の気概と文字通り懐の深さを感じる立像です。

戦時中日本は鉄砲の玉や大砲の弾を作るために全国各所に点在していた銅像を片っ端から潰しました。

しかし、この坂本龍馬の像だけはいくら当時天下無敵の海軍でも手をつけれなかったとか。

そうですよね、亀山社中を結成した坂本龍馬はいわば海軍の開祖みたいと存在なのですから。

薩長同盟の裏側

坂本龍馬は西郷隆盛から長州藩への武器供給の名義貸しを取り付け、同士と共に自分の船でグラバーから調達した武器を長州藩に運びました。

このことにより、長年の長州藩の薩摩藩に対するわだかまりも次第に氷解して行きます。

頃合いを見定めた坂本龍馬は、1861年に下関で長州の桂小五郎と会談し、薩摩との同盟案を待ちだしました。

薩摩藩では名義貸しと並行して長年の不仲に終止符を打とうと和解の使いも数回出していましたから、このころにはすでに長州藩の疑念は氷解していたようです。

それで、桂小五郎は薩長同盟を結ぶ目的で上京し、京都の薩摩藩邸で交渉のテーブルに着きました。

しかし、桂も西郷隆盛も体裁にこだわってか、自分の側から薩長同盟の話を切り出すことはしません。

じれた坂本龍馬は西郷隆盛に「長州は幕府ににらまれて窮地に立っている。

追い込まれている桂の口から同盟に応じてくれとは言いにくいのは西郷さんだってわかるでしょう。

だから、西郷さんの方から救いの手を差し伸べてやってくれないだろうか」とお願いしたといいます。

西郷がなかなか承諾しないので「(桂の気質や長州の現状を分かっていて、救いの手を差し伸べない)足下(貴殿)は無情だ」と西郷のことを断じたともいいます。

桂小五郎は1866年の1月8日に薩摩藩邸を訪れましたが、薩摩藩から申し入れた薩長同盟が長州藩に了承されたのは1月21日とのこと。

これを足掛かりにして日本は確実に近代化路線を歩み始めることになります。

坂本龍馬 寺田屋

1867年1月21日薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎との間に入り、薩長同盟を締結させた坂本龍馬は二日後の1月23日に京都伏見の定宿寺田屋に戻りました。

寺田屋事件というと現代の私たちは坂本龍馬が襲撃された事件をとっさに思い出しますが、実はこの寺田屋、5年前の4月23日にも忌まわしい切り合いの舞台になっていました。

それは薩摩藩急先鋒との待ち合わせのため宿をとっていた薩摩藩の急進派を同藩の保守派が襲った事件です。

それからというものは、寺田屋は伏見の薩摩藩邸の管理下に置かれ、当時薩摩藩の庇護を受けていた(勝海舟のもとを離れて一匹狼になっていた)坂本龍馬の定宿としてあてがわれていたのでした。

それは丑三つ時も過ぎた午前三時ころといわれています。

風呂に入っていたお龍は不穏な物音に気付き、休んでいた坂本龍馬と長州藩の槍の名手三吉慎蔵に急を告げましたが、すでに彼らは20人ほどの伏見奉行配下のものに囲まれていました。

龍馬は高杉晋作からもらった連発銃、三吉は得意の槍で応戦しますがなにせ多勢に無勢です。

結局、彼らは屋根伝いに外に出て、隣家の雨戸から入り表戸を蹴破って闇のなかへ逃げ出しました。

三吉は「逃げないで戦うべきだ」と主張したそうですが、百戦錬磨の龍馬は「そんなことしたら命がなんぼあってもたりないきに!ここは36計逃げるにしかず」と諌めたのだとか。

この寺田田襲撃事件で坂本龍馬は腕と指を負傷しましたが、薩摩藩士の大山彦八などの尽力で一命を取り留めたのでした。

坂本龍馬誕生秘話

坂本龍馬の出生については昔からいろいろな伝説じみたお話しがあります。

坂本龍馬が生まれる前の日、彼の母は天を舞う竜が口から炎を吐きながら彼女の胎内に入っていく夢を見たのだとか。

まるでイエスキリスト誕生の秘話のようなお話しですね。

この話を母・幸から聞いた坂本龍馬のお父さん、郷士坂本家の開祖・八平直海の子である八平直足は、「これは吉兆で神の啓示である」ということで、夢に出てきた龍と「天馬空を翔ける」の馬を名前に充て「龍馬」と名付けたといわれているようです。

また一説によると、坂本龍馬の母親は猫が大層好きで、龍馬を身ごもっていた時にしょっちゅう自分のおなかに猫の絵を描いていたということですが、坂本龍馬の背中には猫の背中にも似た獣のような褐色の毛が張り付いていたといわれています。

例え母親の妙な習慣が本当だとしても、それが原因で背中に動物の毛が生えるわけはありませんよね。

しかしながら猫の魔性の気が乗り移ったなど、お話としては大変面白いので龍馬の出生の印象が強く後世に焼き付いているのもまた事実です。

坂本龍馬の父親直足と母幸の間には、5人の子供があり、龍馬は男兄弟の中では兄直方に次ぐ二番目でしたが、生まれた順番は一番最後でした。

彼の上には直方のほかに、千鶴・栄・乙女の三人の姉がいました。

特に乙女は泣き虫で寝小便たれの龍馬を鍛えて逞しい少年にしたことで有名ですね。

坂本龍馬 大政奉還

坂本竜馬が成し遂げた業績のひとつに大政奉還があります。

大政奉還とは、徳川将軍が朝廷と並ぶ権力を放棄すること(権力が同列であることは名ばかりで実際は徳川将軍の権力は国内で最大のものではありましたが)、朝廷に権力を返還して、他の藩などと同列の一介の「徳川家」に成り下がることを意味するものです。

大政奉還により、幕府の存在自体がなくなるわけですから、無駄な争いごとや尊い命が失われずに、無血のままで政権交代が可能になったわけです。

この点が、坂本龍馬の偉業として大いに評価されるところです。

それまで恐面で君臨してきた徳川幕府株式会社の社長である将軍が「私会社の社長を辞めます。

同時に幕府という名の会社も解散します。

」と口にするわけですから、大変な決心覚悟が必要だったでしょうね。

ケンカになることもなく、中に入ってうまく調整した坂本龍馬もすばらしいですが、徳川将軍の英断も大したものだと思います。

徳川将軍の勇気のある英断に感心した坂本竜馬は、徳川将軍も新政府の主要人物とすることで当時ヨーロッパで普及していた議会制民主政治を始めようと、新政府の行動指針をしたためたのが例の船中八策でした。

このように大政奉還という坂本龍馬の気転の効いた計らいによって日本の国は近代化の道を歩み始めたのです。

大政奉還がなり、龍馬が新政府の官制の案を制作した際、その中に坂本龍馬の名前がないのに気づいた西郷隆盛が「なぜおぬしの名前がない」と尋ねたところ、龍馬は「わしは役人家業は肌に合わないきに」と答えたとか、ほんに龍馬は器が違いますね。

坂本龍馬 書籍

坂本龍馬を取り扱う書籍には論文なども含めると実におびただしい数のものがあります。

この中で私たち一般人でも簡単に坂本龍馬のことについて知ることができるものとしては、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」、また少し毛色の変わったところで加治将一さんの「操られた龍馬-明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」などが有名ですね。

おすすめの書籍1

特に司馬遼太郎さんが描いた作品の中の主人公竜馬は作者の視点から見た独創的な坂本龍馬であるにしろ、私たちがイメージする坂本龍馬像はこの作品によって確立されたといっても過言ではないと思います。

司馬さんは龍馬のことをあえて竜馬と書いており、ご自身の創造を加えて作成したことを強調しておられますが、史実に題材を求めた秀逸な歴史小説であることには変わりありません。

この「竜馬がゆく」は1963年から4年間文芸春秋に掲載され、たくさんの読者がつきましたが、後に文春文庫から8巻本で刊行されています。

私も学生のころ寝食を忘れて貪るように読んだ記憶があります。

おすすめの書籍2

また、加治将一さんの「操られた龍馬-明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」ですが、こちらの方は従来の坂本龍馬像とは別の視点から眺めた坂本龍馬が描かれています。

作者は坂本龍馬がフリーメーソンの構成員ではないかと仮設を立てているようです。

アメリカの独立戦争やフランス革命ではフリーメーソンが深くかかわっていたという見解がありますが、日本の幕末期もフリーメーソンが一役買っていたのではないかとの見方をしております。

一介の下級武士にすぎなかった坂本龍馬が日本を代表する2大勢力、薩摩藩と長州藩の間に立って薩長同盟を介錯したことなど、フリーメーソンの介添えがなければこのような歴史的な一大事件は叶うべくもないとの見方など、興味深い視点で論評を行っています。

坂本龍馬 証言

坂本龍馬の容姿や身長などに関する証言を紹介しましょう。

坂本龍馬の容姿を雑誌やネットなどで見たことはありますか?かなりの写真が残されているので、百年以上の歴史の開きがあるものの、現代の私たちでもかなりの情報を知ることができますね。

でも、それぞれの写真において映り方が随分違っていると感じませんか。

現代の私たちがよく目にする写真に、はかま姿で胸襟を少し開き、懐手をしながらはるか遠くを眺めているような写真がありますが、これなどを見ると随分色白ですよね。

でも、雑誌に載っている写真集などをみると随分色が黒いような感じにも見えます。

どちらが実際に会った時の(会えるはずはありませんが)坂本龍馬なんでしょうか?坂本龍馬の実物像については彼と同じ時代を生きた人々の証言がたくさんありますのでここで皆さんに一部紹介しておきたいと思います。

先ず、夫婦であったお龍さんの証言によると、「目が少し立っていて、額や頬にかなりのほくろがあったので写真映りはよくなかった。また、背中には黒い毛が生えていていつも石鹸で洗っていた。」(千里駒後日譚から要約)だったそうです。

なんといっても夫婦であったお龍さんの話ですから信憑性がありますよね。

じゃ、あの色白の竜馬はおしろいでごまかした写真なのかしら。

う~ん、ポーズも決まっているし、さもありなん^^。

では身長はどれくらいあったのでしょうか。

同じ釜の飯を食べた海援隊所属の関義臣は5尺8寸、つまり176センチくらいだったと証言していますし(関義臣懐旧談)、竜馬と柔術の試合をしたという信太歌之助という幕臣は「龍馬は5尺9寸(179センチ)くらい、彼と組むと口が彼の胸のあたりにあった」と証言しています。

なんでも中岡慎太郎などは152センチほどしかなかったそうなので、大男であったことには変わりがないようです。

ただし、坂本龍馬は姿勢がかなり悪かったようで、上半身を右に倒して歩く癖があったとの証言も残っています。

また、「睨みつけられているようで怖かった」とという証言も伝わっていますが、単に目が細かっただけということのようです。

さて、オチは坂本龍馬本人がイケメンの新宮馬之助に語った台詞で締めましょう。

「君は美男子なので女が惚れる、僕は不細工だがそれでもやっぱり女は惚れだな~これが。」(千里駒後日譚拾遺より要約)

坂本龍馬 新婚旅行

坂本龍馬と内妻のお龍は日本で1番最初に新婚旅行を行ったカップルということですが、私はいまだにそのことについて合点がいきません。

なぜならば、坂本龍馬の前に新婚旅行した人間がいなかったということをだれが証明できるんだろうかと思うからです。

もしこの件について事情に明るい方がいらしたらぜひ私に教えて欲しいなぁと思います。

さて、湯浴みの最中に刺客の襲来に気づき、合わせ1枚だけの着の身着のままで2階にいた龍馬に急を知らせたお龍の気転と高杉晋作譲りのけん銃、そして北辰二刀流の剣の腕前により、京都の伏見寺田屋事件で護衛に当たった長州藩の藩士三吉慎蔵とともに命からがら逃げ延びることができた坂本龍馬は、西郷隆盛らの勧めによってその足ですぐお龍ともにこの新婚旅行に旅立ったといわれています。

もし刺客の襲来を告げるお龍の報告がもう少し遅れていたら、高杉晋作からもらった6連発のブリストルがなかったら、そして龍馬が千葉道場から免許皆伝を受けるほどの腕前でなかったら・・・この日本で初といわれる新婚旅行も現実のものにはならなかったかもしれませんね。

現在、鹿児島県の牧園町にある、塩浸温泉で、手の傷などの負傷を癒した坂本龍馬は、霧島にある高千穂峰に上って天の逆鉾などを見て回ったと姉の乙女にしたためています。

この新婚旅行は実に88日間に及ぶ長いもので、坂本龍馬とお龍は存分に旅を楽しんだということですが、新婚旅行に名を借りた敵情視察であったという説もあるようです。

坂本龍馬は、翌年の11月、京都の近江屋でまたも刺客に襲われ、今度は帰らぬ人となってしまいました。

33歳の太く短い人生が彼の生きざまを象徴しているようですね。

坂本龍馬 船中八策

船中八策とは、土佐藩船で長崎から京都へ行く途中、坂本龍馬が当時参政の要職にあった後藤象二郎に対して示した土佐藩起死回生の秘策でありました。

曰く「天下の政権を幕府から朝廷にいったん返還して、政令はすべて朝廷から発せられること」ことなどを筆頭に、新政府の大綱を綴ったその妙案を見せられた後藤はたいへん喜び、さっそく土佐藩主の山内容堂に見せてようと約束をします。

なぜこの船中八策が土佐藩に好都合かというと・・・・そのころの政治は薩摩藩や土佐藩、越前藩、宇和島藩の四侯会議で大筋が決められていましたが、土佐藩は薩摩藩主導で進められるこの席でどうしても影響力のある発言をすることができずに鬱としていました。

後藤はこの策が通れば薩長に後れを取っている土佐藩の状態も改善されると考えたのでした。

案の定、藩主容堂は船中八策のことを後藤から聞いてたいへん喜んだとされています。

しかしながら、大政奉還を訴える船中八策の思想は土佐藩を政界の主導的立場に押し上げるばかりではなく、幕藩体制から明治の新政権へと橋渡しをする起爆剤にもなりました。

そして坂本龍馬もたび重なる脱藩により長年距離を置いていた土佐藩に再度接近する機会を得ることになります。

幕府に対して政権を朝廷にかえすように土佐藩主に鈴をつけさせようと画策するわけですから、坂本龍馬の度量たるや凡人では測りしれないものがありますね。

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