坂本龍馬の生涯を年表で確認
坂本龍馬の一生を年表で追ってみました。
33歳の若さで亡くなるまで幕末の動乱の中を何かにせかされるように駆け抜けた坂本龍馬は、1835年、天保6年町人郷士坂本八平の次男として土佐の高知に生を受けます。
以下時系列に龍馬の一生を年表で確認していきましょう。
1853年、嘉永六年:大きな志しを抱いて花のお江戸に出向き、当時隆盛を極めていた千葉道場に入門。
1858年、安政5年:千葉道場より北辰一刀流免を授かり、故郷に凱旋。
1861年、文久年:武市半平太主宰の土佐勤王党に加担する。
1862年、文久2年:土佐藩に見切りをつけて脱藩。勝海舟の門下になり、九州や京都、江戸など各地を行脚する。
1863年、文久3年:神戸海軍操練所の頭になる。この年脱藩の罪を許されるが、再度脱藩する。龍馬は脱藩が大好きだったんですね。「藩になんか抱えてもらわなくても俺はどこでも生きていけるぜよ」てなもんでしょうか。
1864年、元治1年:薩摩藩の西郷隆盛や楢崎お龍と知己になる。海軍操練所閉鎖。
1865年、慶応1年:師と仰ぐ西郷隆盛と一緒に鹿児島へ向かい、長州藩の桂小五郎に薩摩藩と長州藩の間の和解をすすめた。この年長崎に亀山社中(のちの海援隊)を興す。
1866年、慶応2年:坂本龍馬の功労により京都に薩長同盟が誕生する。この年、京都伏見の寺田屋で政府の役人に命を狙われる。
1867年、慶応3年:再び脱藩の罪を解かれ、海援隊隊長に任命される。この年、大政奉還の草案を考え、大政奉還後は「新政府綱領八策」や「新官制案」などを作る。
坂本龍馬が年表から消える時
さて、このように順風満帆に見えた坂本龍馬の一生でしたが、この年は龍馬が若干33歳の若さで亡くなった年でもあります。
坂本龍馬がなくなる前後の様子を時系列を追ってみてみましょう。
坂本龍馬は、11月15日に中岡慎太郎や岡本健三郎、菊谷峰吉、そして下僕藤吉とともに、打ち合わせのために京都の近江屋に滞在していました。
午後9時すぎに岡本健三郎と菊屋峰吉が用事で出かけてしまった後、見計らったように刺客が現れます。
刺客は取次にでた近江屋の番頭に客を装って手札(名刺のようなも)を渡し、二階に向かう番頭の後をつけて坂本龍馬が滞在する部屋を確かめると、まずこの番頭に切りつけてから部屋に侵入して、坂本龍馬と中岡慎太郎に切りつけたということです。
必死の抵抗もむなしくやがて龍馬は絶命し、中岡慎太郎と下僕の藤吉もその場では命こそ助かりましたが、2人とも龍馬の後を追うように数日後にはなくなってしまったということです。
さて、龍馬を暗殺したのはいったい誰だったのでしょうか。
当時は佐幕派の新選組が首謀者ではないかと疑われていたようでしたが、今日では政府見廻組の手によるものであったという説が有力なようです。
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